評価と給与のバランスシート

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労働分配の前に『評価』あり

従業員:「働いた分だけ、見返りが欲しい」

会 社:「給与を払った分だけ、働いてほしい」

会社と従業員間における利益相反の代表例と言えば、やはりこれでしょう。

「経費を最小に、成果は最大に」が会社の願いですし、「楽に働いて、給料は多めに」は従業員の願いです。

ただ、その他の経費と違って給与などの人件費は、互いの信頼関係によって意味合いが非常に大きく変わってくるものです。

従業員に対する評価の代償は【給料】と【働き甲斐】

従業員が会社や経営者を深く信頼していてロイヤリティ(忠誠心)が高い場合、働きに対する評価も自然と高くなりますが、結果として、払った給与以上の生産性を会社にもたらしていることが考えられます。

これを従業員側から見ると「給料以外のプライスレスなインセンティブを受け取っている」という見解になり「今後もより一層、高い評価が得られる仕事をしていこう」といった具合にモチベーションの素になります。

「給料が評価より少ないのは納得がいかない」という方もいると思いますので補足しますが、我々は多くの場合、仕事があること自体が既にインセンティブであることがほとんどだと思います。

親族や友人、隣近所との付き合いで会話をする際、又は、アンケートや会員登録等で自分の素性をアウトプットする際、『勤め人』であることによって自信を持てたり、他人からの見方もそれによって変わるという実感を持った方は、少なからずいると思われます(一度勤めてから職を失った経験がある方は、特に良くお分りでしょう)。

また、一日の時間を持て余すようなライフサイクルよりも、少し足りないと感じるほうが精神的に安定したり、濃縮した時間を大事に過ごせるといった利点も否めません。

それからもちろん、仕事を通じての自己成長はかけがえのない財産になるし、仲間との協力や競争もまた、人生においてかけがえのない経験となるでしょう。

信頼関係を失いやすい「評価と給与の失敗」

評価と給与のバランスが、上に述べたような理想形と同じ分かれ方をしていても、たった1点要素が変わるだけで、実に悲惨なことになります。

しかし、一見同じようにバランスがとれているため、関係者一同がその悲惨さに気づけず、「なんだかわからないが社内がギスギスしている」「従業員の働きが悪くてイライラする」「頑張ってるのに成果が上がらない」など、改善の決め手が見つからないままズルズルと行ってしまうことがあり得ます。

労使関係における、典型的な醜態がこれでしょう。

既に中世の頃には存在していた資本家と労働者階級の姿であり、我々が歴史の授業などでお目にかかる場合には「悪の権化」として解説されることが多い。

ゆっくりと時が流れていた時代には、こんな悪辣なスタイルでも経営が長く存続し、後世の我々の目にその醜悪さを焼き付ける羽目になりました。

現代はビジネスモデルの短命化が顕著ですが、そのせいで労働分配の失策が目立たないという点で「経営者のやり逃げ」みたいなことが平然と行われるケースもあり、そんなことの繰り返しで命を長らえている、忌むべき企業もあります。

一方、労働分配の失敗がビジネスを短命化させている場合もあります。
上のような状態は、当然ながら従業員側から見ればこうなります。

会社を興し、長期にわたって発展したいなら、経験豊富な従業員を多く抱えておくほうが何かと融通も利くし、教育コストの削減にも役立ちます。

しかし、従業員に与えるインセンティブの設定を誤ると、それとは逆に人材の流動化を招くことになります。

上図のように「評価から給料を差し引いた部分」が従業員から【搾取】と感じられる状態を作ってしまっては、会社に対する不信や不満が高まるのは当然です。

上手く扱えばモチベーションになるはずの従業員たちの感情の昂ぶりが怒りに変質し、サボタージュやリークなどの手段を取ることもあるでしょう。

また、職場でそういうことをするメンバーが一人でもいれば、集団での労働効率が大幅に下がってしまいます。

そんな居心地の悪い会社は早々に去ってしまえと考える従業員が多くなれば人材流動化は加速し、競争力を失ってビジネスそのものが撤退を余儀なくされるリスクさえ生むようになります。

「失敗の避け方」を失敗する危険性

労働分配の誤りを、テクニックで回避できないだろうか?

経営者や管理者のすべてが、どんな部下とも上手く付き合えるタイプであれば、その人間性ひとつで労使交渉的な問題は折り合いが付けられるはずです。

しかしそんなうまい話はないでしょう。

トップにカリスマがあれば【搾取】しても大丈夫か

創業者は、卓抜したビジネスモデルの発掘力と、強い推進力だけで競争を勝ち抜くことが第一で、組織は後から「手段として作った」というケースがほとんどだと思います。

カリスマがあるので、特に初期メンバーに対しては、特別なインセンティブが成り立ちます。

理想を言えば、評価に対するインセンティブのうち、会社から一方的にもたらされる給料以外は、従業員が会社を通じて自分たちでゲットしていく形が望ましい。

ところが、すべてのインセンティブを会社に依存する上図のような形は、決して好ましいものではありません。

それに、この形でバランスがとれるメンタリティは初期メンバー特有のものであり、かつ、トップが健在な期間だけです。

会社が一定の規模を超えてから入社した従業員には、初期メンバーがトップに対して感じている生々しいカリスマ性というものが理解できません。
当然それは、初期メンバーたちとのギャップを生んでしまいます。

トップの信任厚き初期メンバーたちと、どこかよそ者的な距離を置かれる後世代自分たちに、少しでも評価の差が感じられれば、それが顕著な差(えこひいき)と映っても不思議ではない。

それに、トップが退くころには二代目と初期メンバー間で確執を生む恐れもあり、お家騒動の予感すらしてきます。

トップのカリスマ性で評価と給与の問題をウヤムヤにする(先送りする)というのは、テクニックと呼べるようなものではなく、労働分配のマネジメント不在と判断してよいと思います。

今は良くても①業績が悪化した時、②トップ引退が視野に入ってきた時に、それまでのツケを払わなければならないことになるでしょう。

給料を多めに払っておけば問題ないか?

採用面接でどんなに立派な目標を語っても、従業員の本音は『給料のために働いている』。
安すぎる払いだと、他の好条件の職場へサッサと転職してしまうだろう。

給料を低く抑えるために「トップのカリスマ」が効果的な場合があると説明しましたが、効果の及ぶ範囲や期間に限度があり、おまけにその限界が訪れた時には派手に崩壊するリスクがあるということでした。

やはり、評価に対してはしかるべき金額の給与と、金銭以外の付加価値を提供して帳尻を合わすのが得策です。

ところで、従業員に高いロイヤリティを持たせることで、人件費以上の見返りが得られるというなら、いっそ「評価を上回る給料を払ってやったらどうだろうか?」という選択肢もありそうです。

「利益は出てるんだから、『ヒト・モノ・カネ』の並びの中の1番目に出てくる『人件費』に、思い切って投資してみよう」

ところが、不自然に多すぎる給与もまた災いを呼びます。

給料が高すぎると、気持ちが緩んできます。

それほど張り切らなくても充分なお金が入ってくる環境で、人はわざわざ身を粉にして働くでしょうか。
他人がやりたくない仕事を、買ってでも引き受けたりするでしょうか。

人がしたがらないことだからこそ、高いお金を取れるという商売の原則からすれば、価値の高いことを避けるメンタリティを身に付けてしまった従業員は、戦力になりません。

そうなってしまうと当然、他の会社へ移れるような人材では無くなってしまいますが、わざわざ転職して自分磨きなどしなくても、結構な給料が手に入るのです。

今のぬるま湯状態を手放さないでしょう。

たいして働かなくともお金が入ってくるので、労働量はダウンします。

それでは会社自体が儲からなくなるのではなかろうかとも思いますが、ビジネスモデルが当たって資産の蓄積がある会社だと、(将来的にはどうあれ)それでもゾンビのように前進だけはできる。

そこで有閑階級たちが何を始めるかというと、たいていの場合『他者との比較』になります。

「アイツはそんなに働いてないのに、オレより待遇が良いのが許せない!」

各々が自分を棚に上げて、他人をあげつらって攻撃したり無視したり、徒党を組んで対立したりし始める。

対立グループのメンバーが業績を上げそうになると邪魔をしたり、あらぬ噂を流して貶めたりの足の引っ張り合いに熱中し、それが会社の業績よりも重大事項になってしまう……。

腐った組織によくみられる光景ですが、労働分配に妙なテクニックを用いると、取り返しのつかない事態に発展することがあります。

評価と給与にはどうしても人間の感情が絡んでしまうので、単純な数値のコントロールでは無くなってくるからです。

従業員に【会社は金稼ぎの道具】と割り切らせれば問題は起きないか?

給料は多すぎても少なすぎてもダメ。

評価の総量に対し、「給料」と「金銭以外の付加価値」を与えなければならないとか、難しくてやってられん。

そもそも、従業員に給料を払うために会社を作ったわけじゃないのに……。

組織ができると管理の仕事が発生してしまう。

事業そのものに専念して己の人生を充実させていた経営者にとっては、規模の拡大と共に厄介な荷物を背負い込んでしまったとも言えます。

ただし、経営者の側でも従業員に対しては「給料以上の付加価値を会社に提供してほしい」という願いを持ち、それをはっきりと要求している人もいます。

その一方従業員側では「給料以上の付加価値ってなんだろう?」と、この漠然とした要望に戸惑いつつ、明快な答えのないまま努力している人も多いでしょう。

こんなこと、互いに損だ!

ということで、こんな労働分配の理論があってもおかしくないのじゃないか?

【対等】です

面倒なことは抜き。
働いた分だけ獲得できる仕組みを作って、あとは制度任せ。
稼ぎたい奴は好きなだけ稼げるように、自分で努力しろ。

営業職で、完全な成果報酬式が採られているところなら、こういう形が見られるかもしれません。

たしかに「労働分配」という問題だけなら、これでもある程度の理解は従業員からも得られるでしょう。

ただし、こういうやり方をしている場合には、コンプライアンスの問題や、社会人としての倫理の問題に、極めてシビアな対応が求められます。

当然ですが「稼ぐためなら何でもあり」と考える輩が出現するからです。

もうひとつ大事な問題ですが、この会社でそもそも「働く喜びや感動」というものが、従業員の意識の中に育つだろうか?

「お金に対する喜び」なら育つと思いますが、それなら仮にもっと稼げる会社があれば、そちらで働く方がより大きな喜びがゲットできるので、ここでも人材の流動化が起きてきます。

何より、長期にわたって発展したい会社にとって重要な「従業員のロイヤリティ」が、ここには存在しません。

これでは『搾取している会社』とさほどの違いはありません。

感情の処理を排除するデジタル思考の労働分配法は、合理的であるがゆえに「相互信頼」というアナログチックな理想形を排除してしまったからです。

経験豊富な従業員を多く抱え、教育コストを削減しつつ、払った給与以上の生産性を会社にもたらしてくれるのは個々人の感情の中にあり、それこそ採用面接で求職者が語る『きれいごと』の中に、その指標が判断できるのではないでしょうか。